その機会は突然やって来た。5年前の東日本大震災から3日目、安否を尋ねるロシア語の電子メールが届いた。前年の夏、ドイツのドレスデンで出会ったイリーナからのメールだ。娘のエリーナが日本語を勉強している。僕はすぐに返事を書いた。すると東電福島の放射能汚染水が、太平洋に流れ出ている事を報じたニュースのすぐ後、また一通のメールが来た。
それにはサンクト・ペテルブルグ近郊の住所と共に『もしあなたに、この困難な状況をロシアで乗り越えて行く覚悟があるなら、私達はあなたの家族を迎える事が出来る!』と書いてあった。
良きに付け悪しきに付け、何かと話題になる国ロシア、今年の12月にはプーチン大統領が来日すると言う。
でもその国の本当の姿を僕は知らない。ちまたに流れているロシアのイメージは悪い方が先行しているようだ。でも芸術や科学技術の分野では昔から定評があった。一体全体どんな国なのだろう?
ロシアがまだソ連と呼ばれていた子供の頃、僕の故郷横浜から極東のナホトカまで、客船が多い時には週1便通っていた。もう50年以上も前の話である。それはソ連崩壊後の1992年まで続いていた。 大桟橋の出航風景も何度か見たことがある。色とりどりのテープが投げられ、船上のロックバンドがロシア民謡『カチュ−シャ』などを演奏していた。
その当時の横浜には米軍の駐屯地などがあって、アメリカ人を目にする機会が多く、子供達の間では、外国と言うと『アメリカ!』と答えるのがごく一般的な世界観だった。テレビでは、アメリカのホームドラマと西部劇が毎日のように流れていた。 だが一方で、ラジオから時々聞こえてくる、哀愁のあるロシア民謡は、音楽好きな僕の心に抵抗なく入って来た。『ともしび』(夜霧のかなたに、別れを告げ・・・)、『すずらん』(ある夏の夜、静かな森を一人歩くとき・・・)、今でもその歌詞はすぐに思い出す。「素晴らしき、モスクワ郊外の・・・」と言う、『モスクワ郊外の夕べ』を聞くたびに、「いつか、夏のモスクワの町を歩いてみたい!」と思っていた。
まだ共産主義が、ある種理想のように語られていた時代である。科学技術や芸術の分野では、ソ連はアメリカより進んでいると言うイメージがあった。 そのせいか、大学の教養課程では第二外国語にロシア語を選んだ。シベリア鉄道経由でヨーロッパへ行くことが若者の夢だった時代のことだ。